ペリリュー島に行ってみた 戦跡やツアーの費用『旅行記』

第二次世界大戦時の激戦地「ペリリュー島」。

日本人として一度は訪れるべき場所だとずっと思っていました。

2025年ついにその機会が訪れ、パラオに行くことができました。

ペリリュー島については本や動画を通じて事前に情報を入れて訪れましたが、

実際に現地へ行ってみると、言葉を失うほどでした。

今回は実際にペリリュー島に訪れてみての感想やツアーについて、実際に撮った写真をここでは紹介していきたいと思います。

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ペリリュー島に行くための費用や方法

ペリリュー島へ訪れるには必ずツアーに参加しなければなりません。

うろ覚えですが、パラオ国内の日本のツアー会社は確か3社のみだったような気がします。

値段やツアー内容は似たり寄ったりだと思うので、どのツアー会社にしても違いはないと思います。

まあガイドさんの知識量によって変わってきますが。

例えばこちらのツアー会社さんはWEB割引等していたり、会社によって様々です。

僕は、パラオに到着してからホテルの方にツアーについては全てお任せしていたので、

利用したツアー会社はおそらくホテルと提携している会社だと思います。(名前は忘れてしまいました。)

そのツアー会社は英語を話すガイドさんと、日本語を話すガイドさんが在籍しています。

僕が実際に利用したツアー会社さんの代金は、ツアー代$154でペリリュー島の観光税が$25でした。

ガイドさんは、ペリリュー島出身の方でした。

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ペリリュー島のツアー内容,戦跡や様子

それではペリリュー島の様子を写真を通じて紹介していきます。

全てをここに載せているわけではないのでご了承ください。

ペリリュー島へはメインの島(コロール島)からボートに乗って移動します。

出発は9時、到着は10時15分ほどなので約75分ほどの船旅です。

ペリリュー島についてからは、車に乗り換えてペリリュー島にある博物館に訪れました。

ペリリュー島内にある博物館

左から、当時のペリリュー島の写真。旧日本軍や病院内にいるアメリカ軍、まっさらになってしまった現地の様子が映されていました。

真ん中は、砲弾など。

右側は説明がなかったのですが、おそらく当時の機関銃でしょう。

この博物館には日米の当時の武器やペリリュー島の戦いの概要等様々なものが展示されていました。

とても小さな博物館ですが、見応えたっぷりでした。

旧日本軍の燃料貯蔵庫

こちらが旧日本軍が実際に使用していた燃料貯蔵庫です。

当時ペリリュー島には燃料貯蔵庫が4つあったようですが、こちらが現存する唯一の貯蔵庫のようです。

1944年9月16日、上陸してきたアメリカ軍と戦闘が繰り広げられ35名のアメリカ兵が命を落としたようです。

ご覧の通り、貯蔵庫は分厚いコンクリートで作られているので、銃で撃っても壁を通すことはありませんでした。

壁に見られる無数の穴は、銃弾の跡です。

しかし、戦艦ミシシッピから発射された14インチの砲弾を防ぐことができず、陥落してしまいました。

この貯蔵庫は、アメリカ軍に奪取され医療施設として使用されたということです。

戦後は、最近まで博物館になっていたようですが、建物の老朽化で危険なため、上記で述べた博物館へ移ったようです。

現在は中に入ることはできません。

日本空軍総司令部跡

こちらは旧日本軍の空軍総司令部です。

2階建ての建物で、1階には、娯楽室、警備室、下官室、トイレやお風呂等があり、

2階には士官室や飛行部隊司令室等があったようです。

左側が実際のトイレの様子。中は空洞になっているので、普通のぼっとんトイレです。

右側はお風呂だったようです。

2025年1月時点では2階にも行くことができましたが、階段がかなり老朽化していたので、そのうち入れなくなってしまうのではないでしょうか。

こちらの総司令部も敵の攻撃にあい天井がなかったり、銃弾のあとが無数にありました。

司令部跡の横には防空壕もあり、現在でも中に入ることができます。

アメリカ軍が攻撃してくる前に、旧日本軍は撤退していたので被害はなかったようです。

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旧日本軍がペリリュー島に作った滑走路

こちらは旧日本軍が作った滑走路です。

この滑走路はどの方面にも飛べるように十時に作られていたようです。

米軍がペリリュー島を攻めたのもこちらの滑走路目的だったと言われています。フィリピン侵攻に必要だったため、この滑走路を奪取する必要がありました。

米軍はこの滑走路を2日で陥落させ、日本軍は洞窟内へ退却し徹底抗戦の構えを見せます。

米軍は戦後この滑走路を拡張させ、現在でも使用しています。ペリリュー島に訪れた時、たくさんのアメリカ兵の方々に会いました。

旧日本軍や米軍の戦車や零戦

左側が旧日本軍の戦車です。

どこかに進行中にアメリカ軍によって破壊されったようです。かなり装甲が薄いのので、普通の銃弾も通してしまうのでしょう。

真ん中は米軍か旧日本軍か忘れてしまいました。ペリリュー島内には多くの戦車が当時のまま残っています。

右側は零戦の残骸です。残骸といっても結構綺麗に残っています。

説明された内容は覚えていないのですが、追撃されたのか燃料不足だったのか、こちらに不時着しそのままの姿で残っているようです。

オレンジビーチ

ペリリュー島にあるビーチです。

とても綺麗なビーチですよね。しかしここはアメリカ軍がペリリュー島奪取のために上陸した場所です。

このビーチでは日本軍と米軍の銃撃戦となり、両軍大勢の方が亡くなったようです。

このビーチの近くに殉職されたアメリカ兵の方々の慰霊碑があります。

旧日本軍の200mm砲

 

ペリリュー島には旧日本軍の200mm砲が4つあったとされています。

これらの砲台は主に海岸防衛や海上輸送の護衛に使用されたといいます。

6kmもの射程距離があったというので驚きですね。

この大砲は直径23フィートの蜘蛛のような鉄骨製の骨組みに備え付けれており、360度回転することができました。

この大砲を最初に見つけたのはアメリカ兵で、発見当時大砲は内側を向いており、外から見えないようになっていたといいます。(現在は外側を向いている。)

この大砲に使用する200mmの弾薬を詰んだ船が2017年に沈没した状態で発見されたということで、結局旧日本軍はすでに補給がままならない状態だったのでしょう。

こちらの砲台は結局1度も使用されることがないまま、当時のままの姿でここに残っています。

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ペリリュー神社

こちらはペリリュー島内にある神社です。テレビで見たことがある方も多いのではないでしょうか。

ペリリュー島で命を落とした方々を祀っている神社です。

慰霊塔もありました。とても神聖な場所でした。

終焉の地

こちらは旧日本軍が上陸してきたアメリカ軍に対抗するために作った洞窟です。

栗林中将が硫黄島の戦いで行った戦術と同じですね。ペリリュー島の尾根を蜂の巣状に掘りに要塞化しました。

ペリリュー島の戦いで最も激しかった戦闘がこちらです。

当初アメリカ軍は3〜4日でペリリュー島を陥とす予定でしたが、天然の要塞に立てこもった旧日本軍になかなか対抗策を示せず、結局2ヶ月以上戦闘が続きました。

旧日本軍は玉砕するまで戦ったそうです。

一番右側の場所が実際に自決した指揮官たちが発見された場所とされているようです。

現在は慰霊碑が建てれています。

1000人洞窟

 

1000洞窟はペリリュー島内に作られた洞窟の中で最大のものです。

6つの廊下と、33床の部屋があったとされています。灯りがないと真っ暗です。

こ子では、アメリカ側、日本側共に多くの犠牲を出した場所です。洞窟の名の通り、約1000人の日本兵がいたそうですが、アメリカの攻撃により最終的には50人まで減ってしまったようです。

ここには当時使われていた医療器具や、お酒の瓶等が未だに残されています。

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ペリリュー島旅行記まとめ

いかがでしたでしょうか。

ペリリュー島は絶対に訪れるべき場所だと思います。

こちらにいくつかペリリュー島の写真を追加したので併せてご覧ください。

中には老朽化してそのうち入れなくなってしまう場所もあると思うので、もし行きたいと考えている方はなるべく早く行った方がいいと思います。

もし質問等あればコメントしてください。

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